『嫌われる勇気』岸見一郎/古賀史建(ダイヤモンド社)

普段、自己啓発本の類を嫌っている私が、自己啓発の源流「アドラー」の教え『嫌われる勇気』を読んだ。結果、今の私がこのタイミングで読むことができて、本当によかった。


読むに至ったのは、ある人に「読んでみるといいかもよ〜」と手渡されたからだ。

人から勧められなければ、自分からは絶対に手を出さなかった。


「みんなもぜひ読んでみてね!」とは言いたいわけじゃあ、ありません。そういうのこそ嫌いだから。その人にとって必要なタイミングがあれば、出会うべくして出会うのだから。


だから「ここがオススメ!」とも言わないんだけれど、しのごの言わず、私は24年間こう生きてきましたってことを、今、書いておきたいと思いました。


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私は24年間、特に18歳までは、「私はできる」「私は強い」と自分に暗示をかけて頑張ってきました。

だって、私は長女だもん。賢いもん。努力家だもん。なんでも上手にこなせる、もん。

そう暗示をかけることは、「私以外はできない」「他の人は私より弱い」と思い込むことでもありました。それを、結果で証明することでもありました。


必死の修行でした。誰に強いられてもいないのに、毎朝に4時に起きて朝刊が来るまで勉強、新聞を端から端まで読んでスクラップ、学校では小テストでさえも満点を取らなければショックを受けて、昼ごはんはかっこんで図書館に一番乗りで勉強。部活はもちろんキャプテン、鬼の形相でみんなに怒鳴って、心身疲れた状態で寝るまで勉強。テスト時期はお風呂さえ秒で済ませて、勉強。

それで結果が出ていたから、証明ができて、思い込む頃ができて、褒められて、自分より弱いと思っている人たちに一目置かれて、気持ちが良かった。

でも、今考えるとずっと浅い息で全力疾走していたような、息苦しさがありました。


そして、18歳の春、推薦で合格した日本トップの女子大学に入学し、初めての「どうにもできない」挫折を味わいました。

出会ったことのない秀才たちに囲まれて、持って生まれたものの差に愕然としました。


ああ、与えられたものが違いすぎる。


そんな状況に気付いた時に、私はすぐにスイッチを切り替えられたからラッキーでした。それこそが、本当の私の強さだったのかもしれません。


与えられたものが違う。このレースにいても、私これ以上進めない。それもありのままの事実。

だったら、これからは必死に勉強して学力やその点数で戦おうとあがくんじゃなく、違う道で前に進もっ!と方向転換できたんです。


これは、アドラーのいう自己肯定から自己変容への転換。

ー自己肯定とは、できもしないのに「私はできる」「私は強い」と、自らに暗示をかけること。これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方である。一方の自己変容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと。ー


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自己変容への転換を経て、24歳になった私はスッキリさっぱり生きているかというと、そういうわけでもありません。


「私はできる」「私は強い」から抜け出せても、「私は正しい」からは抜け出せていなかったんです。

「私“が”正しい」に近いくらいの執着心でした。


私は「自分は正義感が強い」と思い込んできたのですが、本当は「私が正しい」という剣を振りかざして他人を怯えさせ、自分を大きく見せようとしていた部分があったことを認めます。これまで、つい最近も、きっと傷つけてしまった人がいます。ごめん。


そして、「私はとっても負けず嫌い」(だから努力できる)とも思い込んできましたが、それもちょっと違ったかもしれません。私は、自分が正しいことを「ほらね、私が正しい」と相手をひれ伏せて、勝ち誇った気分になっていました。負けることが嫌いというより、勝った気分になることに酔っていた。


アドラーの考えによると次の通り。(おぅ、バッチシ私のこと。)

ー私は正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまっています。そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。ー


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そして、最近はこんなことに頭がカッカしてました。


アドラー曰く、

ーあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーによって引き起こされます。他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させないこと。対人関係を縦で捉え、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。ー


そうなんです。


「もう、この人どうしようもないな!」って思って、表面的なストレスは重なっていく。

ただし、そうやって人を下に見ている自分は、内心ちょっと気持ちが良かったりする。なぜなら、「私が正しい」から。「私の正しさ」を武器に、相手の課題の中に介入してしまっている状態。


なんだか気持ち悪い、気持ち良さ。陰口でその場が盛り上がっているような、高揚感。


そんなことを続けていくうちに自分自身も本当に苦しくなって、「あ、私自身のことと相手のことと、混同しているような…!」と気づくのだけれど、もうどこからが境目なのかもわからない。あー、困った、ギブアップ。


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そこで、いろんな人に、相談したり話を聞いてみるなかで気付いたこと。


そうか、「この人どうしようもない」のは当然なんだ。だって、私にとって“他人”だもん。


「他人は変えられない」って、何回も聞いてきたあるあるフレーズなのに、やっと本当の意味でわかった気がしました。「この人(=他人)はどうしようもない」のは、今の私に与えられている状況。というか誰でも、そう。


で、その今の状況を私がどう使うか、なんだ。そもそも、使うか使わないか、も私が決められるんだ。


アドラー曰く、

ー自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めること。我々は「何が与えられているか」について、変えることはできない。しかし「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。ー


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自分のこれまでの変化、がわかった。

何に固執しているか、もわかった。

「どう使うか」は自分で決められて、それによって生まれる結果も自分次第なのだとわかった。

そこまでわかったからこそ、「今私に与えられているもの」について客観的に見る目を手にいれた。


だから今、あるものを使うか使わないか、何を選んで使っていくか、真剣に考えています。

そして、その過程を、周りの人たちにサポートしてもらっています。


アドラー曰く、

ー我々が歩くのは、誰かと競争するためではない。今の自分よりも前に進もうとすることにこそ価値がある。ー


「今の自分よりも前に進む」ということは、10日前の自分にはわかりませんでした。

前に進むことは、もっと誰よりも正しくあること、だと思っていましたから。

もちろん、「この本のおかげで人生変わった!」ってわけじゃなくて(そういうの嫌い。)、「この本」と「これまでに自分の経験」がセットになって、気づけた。


こじらせる前に、24で気づけて、ほんとよかったなー。

あと反省点として、好き嫌いせず勉強しよう!


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