溢れるモノは、愛。ぎゅうぎゅうと、愛を。
「万引き家族」のパンフレットに掲載されたコラムで、内田樹氏は本作における「貧乏」の描かれ方に着目していた。
ふつうは、物がないのが、貧乏だ。着るものがない、食べるものがない。
しかし「万引き家族」では、家の中にものがあふれている。
冬は、とにかくあるものを着込んで、みんなむくむくだ。
足元にはこたつにふとんに座布団に、布という布。廊下や玄関までも段ボールがふさいでいる。ゆえに住んでいる人数に対して、空間が狭すぎる。
カップラーメンに、コロッケを浸してたべる。ぐらぐらと煮立った鍋に、家族6人の箸がのびる。
見ているだけで、立ち上る湯気の脂っぽさにウッとくるような、食事だ。
明らかに、人の生活がモノに押しつぶされている。
それほどに、物があふれている。画面の中と分かっていても、目を細めてしまうほど、汚い。
観るものは、その状況から、“貧乏”な“家族”だと認識する。
その、生活を押しつぶす大量のモノこそ、あの“家族”に詰め込まれた「愛」なのだ。
なぜそこにあるのかさえも、不明。無意味なものがほとんどだ。でも、詰め込まれている。
愛は、わかりにくい。美しくなんてない。
昨日起こった、大阪での内陸直下型地震。
突き上げるような強い揺れに、食器は棚から滑り落ち、散乱し、ガラスの破片となった。本は雪崩となって人を襲った。
揺れ、踊り、倒れ、いまだその姿勢から戻されることのない棚やテレビや家具。
足元には、所在を失くした大量のモノが散乱している。
一瞬にして変貌した我が家を見た主婦は、言葉が出ないと言って泣いていた。
それは、これから始まる片付けの大変さや、大事な思い出の品が壊れたことを嘆いているのではない。(それらは後からじわじわと、疲労となって人々の中に蓄積する。)
ただ、モノが散乱している。
ここに住む、家族のモノが、所在を失くして静かに狂っている。
モノという自分たちの生活が、乱暴に棚卸されてしまった。
生々しく、そこに横たわっている。理解ができない、わからない、醜い。美しさなんて、ない。
でもそれらはまぎれもなく、ここにある愛だ。
モノが、愛が、無防備に散乱している。
目に映るその事実こそが、最初の“言葉も出ないショック”だろう。
それらをまた一つ一つ拾い上げながら、所在を明らかにしていくのが片付けであり、またそれは胸を抉る作業でもあるだろう。
一夜明けて。
片付けに、追われる人。
まだ揺れの恐ろしさに動けずにいる人。
しばらく家を空けることを決めた人。
電車が動いたから、仕事に行かねばならない家族の背中を見送った人。
今日、無事に家族が帰ったことに、泣いた人。
薬学博士の池谷さんと糸井重里さんの対談には、こうある。
「そこに何かがないと!」という場所に詰め込まれるのが、愛。
愛は、 パッキングするとき、空いちゃった隙間に詰めるもの。
空いたところに、ぎゅうぎゅうと、「愛」を。
不安な日常を送る人々に、どうか。
ぎゅうぎゅうと、愛を。
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