絵に描いた家族なんて、無い。出来損ないでもいいのが、きっと、家族だ。

万引きでしかつながれなかった、家族。

血も、過ごした時間も、バラバラ。

血の繋がっているホンモノの親に虐待される、じゅり。ホンモノの家族から逃げて、実の妹の名を源氏名にしてJKリフレで働く、亜紀。“父”として、祥太に万引きを教える、治。初代の死体を遺棄し、年金を不正受給する信代。


両親が建てた一軒家で、お金に困ることもなく、ひもじい思いも寒い痛さも知ることなく育った私。

母と父にはありったけの愛情を注がれ、ぶたれたこと一度もない。

幸福な家庭に生まれ育った私には、虐待も水商売も万引きも重犯罪も、遠い世界の話だ。

でも、この「万引きでしかつながれなかった家族」と自分を、紙一重に思うのははなぜだろうか。


治は父親を、信代は母親を、初代は祖母を。

皆それぞれが、家族を演じている、“家族”。


そうだ、家族って、演じている。

母だって、嫁ぐ前、前の家族では娘や妹だった。

私は、今は娘であり妹や弟にとっては姉だけれど、もしこの先誰かと家族を作ることがあれば、妻や母になる。祖母になることもあるだろう。

それは、家族の中でその役を演じるということであって、演じるから「家族」になるのだ。

家族は、演じることで繋がっている。万引き家族も、うちの家族も、あそこの家族も。


と言ってしまうと、家族に対してメガティブに捉えているように思われてしまいそうだ。

「演技」「演じる」という言葉は、舞台ではなく日常の中で使われる時、「本心じゃない」とか「取り繕い」とか「表向き」、みたいな捉え方があるからだ。

でもきっと、悪いことじゃない。

少なくとも、「万引き家族」を演じた俳優陣は、素晴らしかった。

彼らは、映画という非日常の中で、家族という日常を演じていた。


是枝作品は、予定調和の映画ではない。

泣きどころ、笑いどころ、がはっきりしていない。

でもふとした場面で、理由もわからず暖かい気持ちになったり、涙がこぼれたりする。


映画を観た後、子どものときの、ある一瞬のことを思い出した。

思い出というほどでもなく、場所も覚えていない。

家族で、写真をとったのだった。うちは写真屋さんで家族写真をとったりはしなかったので、

おそらくどこか旅行先などで、近くにいた人にお願いしてとってもらったのだったか。

撮ってくれたのは、おばさんだった。

「絵に描いたような家族で!」

と褒められた。


おそらく私は小学校高学年くらいだったろうか。それとも中学生になっていたか。

違和感が、ずっと、しこりになって残った。

絵に描いたような、家族。

それは、その写真一枚に切り取られた「家族」をみた、おばちゃんの感想だ。

お母さんは子育てに行き詰まって泣くことがあった。

私は妹や弟に意地悪な気持ちを持って奢っていた。

お父さんは人の考えを聞き入れず意地っ張りなところがあった。

(今はみんなそれぞれ、だいぶ丸くなったとは思うけど。)


うちだけじゃないと思う。

家族って、いびつだ。

ひねくれていて、鬱陶しくて、後ろ向きなことの方が多い。

絵に描いたような家族なんて、たぶん絵の中にしかない。

でも、私の家族は、父と母と妹と弟と私。それが私の、大切な、家族だ。


「出来損ないだけど、パパだったんだよ。」

「そして父になる」での、福山雅治演じる良多のセリフ。


出来損ないでもいいのが、きっと、家族だ。







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