『モリのいる場所』

映画に携わった出演者、スタッフ、関係者の名前が連なるエンドロール。そのなかに、「アリ撮影」として携わられた、立教大の先生のお名前がありました。

 作中には、守一のすべてであった自宅の庭の様子が、瑞々しく描かれています。アリやカマキリや名も知らない虫の、生きる姿まで。 

私の想像でしかありませんが、「アリ撮影」として本作に携わられた方は、まさか「アリ撮影」で映画のエンドロールに名前が載るなんて、思わなかったでしょう。大学の先生ならば、研究論文に名前が載ることはあっても。  


だから、私は毎回、照明がじんわりと明るくなるまで、エンドロールも最後まで観ます。

流れる文字をただ眺めていると、とても心が静かになって、いい時間です。 映画は、だれでも参加できるエンターテイメント。つくるという関わり方も、観るという関わり方も、アリ撮影という関わり方も、できる。


 ああ、私もいつか載ってみたいなあ、エンドロール。

 そう思うようになってから、「エンドロールに載る」というのはわたしが何かを選択するときの、自分への問いかけになりました。 「この仕事でいいのか」「やめたほうがいいのでは」「もっとやるべきことがある」と悩むとき、何になりたいか、何をしたいか、何が向いているか。そう考え始めると、ずるずると悩みの溝に沈んでいくように思います。

でも、「いつかエンドロールに載ったとき、“何”の諸岡若葉として載ったらうれしいだろう」と考えると、もっとシンプルに答えが出ます。アリ撮影、いい。方言指導も、いい。でも、この仕事で載りたくはないな、というか載れないだろうな。とか。

 エンドロールに載るということには、「このほうが金銭的に安定するだろう」とか「このほうが周りから評価されるだろうとか」そういう余計な欲が含まれない。

それでエンドロールに載りたいな、と思えるならそれは良い道だし、思えないならやめといた方がいい。だって、その道で、もしエンドロールに載ったとしても、嬉しくないんだから。くだらないゴールしか待ってないんだから、やらないほうがいい。 


お金とか安定とか評価とか、そういう欲は捨てようと思ってもなかなか捨てきれない。 だから、「エンドロールに載る」というのは、我ながらなかなかいい軸を見つけたなあ、なんて。

そんなこと、30年以上も自宅の敷地内から出ず、草木と虫と猫とを観察し続け、描きたいことだけ絵に描いた守一に言ったら、ジロリとみられるだけで、茂みの中にいなくなってしまうだろうな 。

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