性質とうまく付き合っていくこと。
私は、多くの人が気づかない程度に、吃音があります。
常にという訳ではないし、自分の思いを言葉にするのは得意な方です。
喋ることも、大好きです。
吃音が現れるのは、すごく喋りたいことがあって気持ちが突っ走っている時や、尊敬する人を前にうまく喋ろうとする時。
喋りたい、と思えば思うほど、すぐ喉まで出かかっていることばをうまくつかめず、空振り三振。その結果、頭の中では「おっとっと」という感じになって、実際には「たっ、つっ、と、」みたいな具合にどもってしまうということがあります。
そういう性質があると自分で気づいたのは、小学生の時です。
図工の次に大好きな国語の時間。私はみんなの前で朗読するのも大好きで、率先して手をあげる子でした。張り切って読み始めて出だしはスラスラと読めていたのに、途中でこける。恥ずかしいというよりも、負けず嫌いな私は、悔しかった。
そのような性質を「吃音」ということは、私よりもずっと吃音の性質が強い子と出会って知りました。あの子の喋り方は、みんなとは違う。私も周りの子と同じくそう思っていました。その違いは「吃音」と呼ぶのだと、大人に聞いたんだと思います。
吃音ということばを知ることで、私も少しその性質を持っているということに気づきました。「あ、だからか」と、スッキリしました。
私もたまたまあの子と同じで、あの子だけが特別なんじゃない。そう思えたのに、だからと言ってその子を周りの偏見の目から守ったり、「私も一緒だよ。」と優しく声をかけることはできなかった。子どもは素直で、残酷なところがある。だからといって大人が残酷じゃない訳ではないけれど。
自分に吃音の性質が少しあると気づいた私は、どうやったらその性質が出にくくなるか、自分なりに研究をしました。まず心をふっと緩めること、「上手く読もう、喋ろう」と張り切り過ぎないこと、自分が思うよりもゆっくりと。読む場合は、自分が息継ぎしやすい隙間を早めに見つけておくこと。そして、喋る場合は言葉を大事に選ぶこと。そのために要する時間を、相手は許してくれていると思うこと。
また最近は、「喋らない」という選択肢も大事に思うようになりました。
沈黙もよしとする、というのにまではまだたどり着かないけれど。
中学生になっても高校生になっても、成人を迎えても、その吃音という性質は時々ひょっこり顔を出すけれど、気にはしていません。
たまにどもってしまうことは、突っ走る私の肩にひょいと手をかけて「そうそう焦らず、ゆっくり行こうや」というブレーキの役割も果たしてくれている、というように思います。
吃音だけじゃない、色々な性質が重なって、じぶんができているわけです。
ハンバートハンバートの「ぼくのお日さま」を初めて生で聞いた時、涙が出たのはそんな事由から。
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