Wakaba Morooka

記事一覧(37)

『発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由』栗原類(KADOKAWA)

24年間生きてきて、昨日初めて気づいたことがある。
 私は、「来た道を戻る」のが苦手だということ。 
ずっと「方向音痴だ」とは思っていたけれど、Google mapが手元にあれば、目的地に行き着くのに迷うことはそうない。問題は、目的地から帰るときだ。来た道をそのまま戻ろうと思うのに、それができない。一度見た景色は、逆から辿ると、子供が書く鏡文字のように「あっているけど違っている」ような気持ちの落ち着かない感じになる。行きは右にあったお店が真正面にあったり、行きは後ろに見えた信号が左にあったり、わけがわからなくなって、結局Googlemapを開く。アプリに頼ると、いとも簡単に戻ってこれたということは何度もある。 道を道として覚えられないということみたいだ。私は、そこに立った時に見える景色を絵のように捉えていて、記憶に残ったそれをつなげて「道」を認識している。だから逆から辿る道は、ついさっき通った道であっても、初めての道だ。 他にも私には、どうしても克服できないことや苦手なことがたくさんある。 お釣りの計算、忘れ物をしないこと、電話(かける方も出る方も)、初めましての人ばかりの場所…
 自分にも「できないこと」はたくさんあるのに、他人の「できないこと」をわかるのは、難しい。 ついつい「なんでこんなこともできないの?」とイライラする自分がいる。 「こんなこともできないなんて」とバカにしてあざ笑っている、意地悪な自分もいる。つまらないことだ。 「できない」を非難するのでなく、その人の「できる」に注目した方が、お互いにとっていい。 「できる」をちゃんと認め合えた先に、「できない」とどう付き合っていくか、ということも考えられるようになる。 
自分や、その人自身が変われなくても、やり方を変えれば、何かに頼ることをよしとすれば、できるようになることはたくさんある。「栗原類が輝ける場所をみつけられた理由」には、そのヒントがたくさん隠れている。東洋経済オンラインの記事 →http://toyokeizai.net/articles/-/172230

『翔ぶ少女』原田マハ(ポプラ社)

愛する人を想うと、背中から羽が生える。「飛んでいきそうな気分」というような可愛いものではなくて、背中に感じる違和感が、そのうち野球ボールくらいの大きなイボになり、激痛に転げ回った末に、赤く濡れそぼった、頼りげない羽が生えてくる。恐ろしく、奇妙で、でも、わかる感覚だ。主人公の丹華(ニケ)は、3人兄妹の真ん中。両親はパン屋を営む。実家はパン屋の二階。物語の始まり。丹華は、一階から漂ってくるパンの匂いと、両親とお客さんのおしゃべりを遠くに聞きながら、まだ布団から出られずにいた。まぶたに落ちる霞んだ朝の光は、きっと丹華の一生のうち、一番優しく、やけに静かなものだっただろう。一瞬にして、その小春日和のようなふんわりとした幸せは、瓦礫の下に埋まった。両親も一緒に。そんな受け入れられない一日が来ても、また朝は来て、生きている限り、日常は続く。これは、丹華たち兄妹と、育ての親となるゼロ先生が、ごく普通で、たった一つの“家族”になる物語。愛する人を想う。それは、とても強い気持ちだ。大きくて暖かくて、狭苦しくって、ズキズキ、痛い。でも必ず、過ぎ去った後にはその痛みえも愛おしくなる。愛する人を想うと、背中から羽が生える。それは普通ではありえない感覚だけれど、確かに共感を抱く。丹華は、誰しもの中に住んでいる。これはファンタジーではなく、限りなく、ノンフィクションに近い小説だ。

『嫌われる勇気』岸見一郎/古賀史建(ダイヤモンド社)

普段、自己啓発本の類を嫌っている私が、自己啓発の源流「アドラー」の教え『嫌われる勇気』を読んだ。結果、今の私がこのタイミングで読むことができて、本当によかった。読むに至ったのは、ある人に「読んでみるといいかもよ〜」と手渡されたからだ。人から勧められなければ、自分からは絶対に手を出さなかった。「みんなもぜひ読んでみてね!」とは言いたいわけじゃあ、ありません。そういうのこそ嫌いだから。その人にとって必要なタイミングがあれば、出会うべくして出会うのだから。だから「ここがオススメ!」とも言わないんだけれど、しのごの言わず、私は24年間こう生きてきましたってことを、今、書いておきたいと思いました。ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー私は24年間、特に18歳までは、「私はできる」「私は強い」と自分に暗示をかけて頑張ってきました。だって、私は長女だもん。賢いもん。努力家だもん。なんでも上手にこなせる、もん。そう暗示をかけることは、「私以外はできない」「他の人は私より弱い」と思い込むことでもありました。それを、結果で証明することでもありました。必死の修行でした。誰に強いられてもいないのに、毎朝に4時に起きて朝刊が来るまで勉強、新聞を端から端まで読んでスクラップ、学校では小テストでさえも満点を取らなければショックを受けて、昼ごはんはかっこんで図書館に一番乗りで勉強。部活はもちろんキャプテン、鬼の形相でみんなに怒鳴って、心身疲れた状態で寝るまで勉強。テスト時期はお風呂さえ秒で済ませて、勉強。それで結果が出ていたから、証明ができて、思い込む頃ができて、褒められて、自分より弱いと思っている人たちに一目置かれて、気持ちが良かった。でも、今考えるとずっと浅い息で全力疾走していたような、息苦しさがありました。そして、18歳の春、推薦で合格した日本トップの女子大学に入学し、初めての「どうにもできない」挫折を味わいました。出会ったことのない秀才たちに囲まれて、持って生まれたものの差に愕然としました。ああ、与えられたものが違いすぎる。そんな状況に気付いた時に、私はすぐにスイッチを切り替えられたからラッキーでした。それこそが、本当の私の強さだったのかもしれません。与えられたものが違う。このレースにいても、私これ以上進めない。それもありのままの事実。だったら、これからは必死に勉強して学力やその点数で戦おうとあがくんじゃなく、違う道で前に進もっ!と方向転換できたんです。これは、アドラーのいう自己肯定から自己変容への転換。ー自己肯定とは、できもしないのに「私はできる」「私は強い」と、自らに暗示をかけること。これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方である。一方の自己変容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと。ーー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー自己変容への転換を経て、24歳になった私はスッキリさっぱり生きているかというと、そういうわけでもありません。「私はできる」「私は強い」から抜け出せても、「私は正しい」からは抜け出せていなかったんです。「私“が”正しい」に近いくらいの執着心でした。私は「自分は正義感が強い」と思い込んできたのですが、本当は「私が正しい」という剣を振りかざして他人を怯えさせ、自分を大きく見せようとしていた部分があったことを認めます。これまで、つい最近も、きっと傷つけてしまった人がいます。ごめん。そして、「私はとっても負けず嫌い」(だから努力できる)とも思い込んできましたが、それもちょっと違ったかもしれません。私は、自分が正しいことを「ほらね、私が正しい」と相手をひれ伏せて、勝ち誇った気分になっていました。負けることが嫌いというより、勝った気分になることに酔っていた。アドラーの考えによると次の通り。(おぅ、バッチシ私のこと。)ー私は正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまっています。そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。ーー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ーそして、最近はこんなことに頭がカッカしてました。アドラー曰く、ーあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーによって引き起こされます。他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させないこと。対人関係を縦で捉え、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。ーそうなんです。「もう、この人どうしようもないな!」って思って、表面的なストレスは重なっていく。ただし、そうやって人を下に見ている自分は、内心ちょっと気持ちが良かったりする。なぜなら、「私が正しい」から。「私の正しさ」を武器に、相手の課題の中に介入してしまっている状態。なんだか気持ち悪い、気持ち良さ。陰口でその場が盛り上がっているような、高揚感。そんなことを続けていくうちに自分自身も本当に苦しくなって、「あ、私自身のことと相手のことと、混同しているような…!」と気づくのだけれど、もうどこからが境目なのかもわからない。あー、困った、ギブアップ。ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ーそこで、いろんな人に、相談したり話を聞いてみるなかで気付いたこと。そうか、「この人どうしようもない」のは当然なんだ。だって、私にとって“他人”だもん。「他人は変えられない」って、何回も聞いてきたあるあるフレーズなのに、やっと本当の意味でわかった気がしました。「この人(=他人)はどうしようもない」のは、今の私に与えられている状況。というか誰でも、そう。で、その今の状況を私がどう使うか、なんだ。そもそも、使うか使わないか、も私が決められるんだ。アドラー曰く、ー自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めること。我々は「何が与えられているか」について、変えることはできない。しかし「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。ーー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー自分のこれまでの変化、がわかった。何に固執しているか、もわかった。「どう使うか」は自分で決められて、それによって生まれる結果も自分次第なのだとわかった。そこまでわかったからこそ、「今私に与えられているもの」について客観的に見る目を手にいれた。だから今、あるものを使うか使わないか、何を選んで使っていくか、真剣に考えています。そして、その過程を、周りの人たちにサポートしてもらっています。アドラー曰く、ー我々が歩くのは、誰かと競争するためではない。今の自分よりも前に進もうとすることにこそ価値がある。ー「今の自分よりも前に進む」ということは、10日前の自分にはわかりませんでした。前に進むことは、もっと誰よりも正しくあること、だと思っていましたから。もちろん、「この本のおかげで人生変わった!」ってわけじゃなくて(そういうの嫌い。)、「この本」と「これまでに自分の経験」がセットになって、気づけた。こじらせる前に、24で気づけて、ほんとよかったなー。あと反省点として、好き嫌いせず勉強しよう!

『楽園のカンヴァス』原田マハ(新潮社)

「アート」の本だと、手をつけられずにいた。「このミステリーがおもしろい!」と帯に書いてあって、手を伸ばさずにいた。私は、アートにも精通していないし、ミステリーは普段読まない。恥ずかしながら、ピカソはパブロ・ピカソだとは知らなんだ。ルソーと聞いて、私の記憶にかろうじてうっすら存在しているのは、ジャン=ジャック・ルソーの方だ。無論、本書の表紙の絵も、知らなんだ。それでもこの度読むことになったのは、ブックオフで目があったからである。原田マハは好きな作家の一人なので、もちろんその代表作「楽園のカンヴァス」の存在は知っていた。いつか読もうとは思っていて、多分その時が来たのだと思う。アンリ・ルソーの『夢をみた』。一枚の絵画を巡る物語。私にとっての見所は、ミステリーというよりも、登場人物たちの“欲”だった。一枚の絵画を巡って、人々の欲が巧妙に絡まり、解け、また絡みあっていく。時代を超えて、次の物語へを紡いでいく。欲は自分を支配し、人を騙し、また人を試しもする。でもその中で露わになってくる、素がある。恋もある。しばらく小説は読んでいなかったけれど、作られた世界に没頭するのも、いいものだ。また少し、読み始めよう。

『言えないコトバ』益田ミリ(集英社)

私の言えないコトバ、スワッグ。 花束を逆さにして壁に飾ると、スワッグ。果たしてそういう理解で合っているのか? だいたい、正しいイントネーションがわからない。
強調すべきは「ス」なのか、「ワ」なのか。音の高さは、「ス」から「ワッグ」にかけて上げる感じ?それとも下げるのが正解?
こういう時、宮崎なら便利だ。宮崎弁では、橋も箸も、柿も牡蠣も、同じだもの。
ただし、今は宮崎に住んでいるわけではないので、それらはできれば会話の中に出てこないでほしい単語だ。「かき」「はし」たった2文字に毎度ドキドキして、「海のかき」「果物のかき」とか、冠をつけるようにしている。
 そして、話はスワッグに戻る。
明らかに「スワッグです」って感じで逆さまになって売られていても、「スワッグください」とは言えない。でも、「その花束ください」もちょっとダサっぽくて言えない。もう、なんて言ったらいいのさ。 も一つ言えないコトバ、ガーランド。 こちらも同じく正しいイントネーションがわからないのだけれど、それ以前に、あの小さな旗の連なりに「ランド」とは、なんと大袈裟な! ディズニーランド、ニュージーランド、ポーランド…「ランド」って、そういう大きなイメージなのだ。ガーランドって…そんな…ただの三角の旗ですよ!(多分そのランドとは違う意味だと思うけれど。) 口癖よりも、「言えないコトバ」にこそ、そのひとらしさって現れているような気がする。 

人生は、“要点以外”だらけの日常で、できてる。

SAKEROCKの「SAYONARA」は、「さよなら」なんて歌詞はどこにもないけれど、紛れもなくさよならの音楽だ。むしろ、「さよなら」という言葉よりもずっと、さよならの時の切なさ、寂しさ、まだ見ぬ「さよなら」のあとへの期待、いろんな感情を含んでいる。私たちは日常の中で、言葉を贈りあったり、投げつけたり、噛み殺したり、色々な方法を使って、言葉で気持ちを表現しようとしている。今私は猫と暮らしているけれど、言葉を持たない猫にさえ、言葉を使っている。猫と違って、人間は言葉を持っていて、言葉は日常を彩っている。ただ、言葉にするということは、時に多くのことを削ぎ落とすことでもある。「さよなら」という言葉にすることで削ぎ落とされてしまう諸々を、「SAYONARA」という音楽が表しているように。監獄のお姫さまの回想シーンで何度か出てくる、馬場かよ(キョンキョン)のセリフで、私はいつも胸がクッとなる。不倫をした夫に、妻の馬場かよが話し合いを求めるシーン。キッチンのタイマーが鳴ったのに気づいて、もうこりごりだといういうふうに夫が「要点にまとめて話さない?」という。それまで「冷静に、冷静に」と自分をなだめていた馬場かよが、何かが外れたように叫ぶ。ー要点しか話したらいけないんですか?要点以外はどうしたらいいんですか。あなたには他に話す相手がいるかもしれないけど、私にはあなたしかいないの。だから、全部、要点なの!!!ー要点以外。言葉は時に、要点以外を削ぎ落としてしまう。監獄のお姫さまは、女性の刑務所を舞台にしたドラマ。当然、登場人物は殺人未遂だったり、巨額脱税者だったり、シャブ常習犯だったりする。馬場かよも、このセリフの後に、夫を包丁で刺してしまう。そんな奴らが愉快に笑わせるドラマなんて、クドカンだから許されるのだろうか。でも、監獄のお姫さまはブラックユーモアではない。頭から尻尾の先まで、しょうもないドラマなんだ。ストーリーのメインとなっている「おばさんたちの不完全犯罪」はどうしようもなく不完全で、そんなおばさんたちが刑務所の中で繰り広げる日々も、本当にしょうもない。しょうもないことに、腹の底から笑える。これが、クドカン作品だと思う。だって、私たちの日常はしょうもないことだらけだ。しょうもないことの隙間に、時々奇跡のようなことや、飛び跳ねるくらいの喜びや、ショッキングな出来事もある。それもまた人生のスパイスだけれど、ほとんどは、しょうもないこと。しょうもないことだらけの日常が積み重なって、私たちは生活していて、それが人生だ。その末に、みんないつかどこかで必ず、死を迎える。要点以外。しょうもないこと。それが生きている間の大半を占めるとしたら、思いっきり笑えた方が、お得な人生だと思う。角刈りばかり大量生産する、キョンキョン。パンをお尻で潰してミルフィーユをつくる、姉御こと森下愛子。「だって私、女優よ〜」というセリフを我が物にしている、(ホントに)女優の坂井真紀。ほんとみんなしょうもなくって、愛らしくて、おかしくって、最高。