Wakaba Morooka

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張り紙はしない、マユミさん。

マユミさんは、鳥取市商栄町でBentoというお弁当屋さんを営んでいる。私は時々、お弁当を買ったり買わなかったり、マユミさんに会いにBentoに行く。昨日は、買わなかった。たまたま近くに行く用事があったので、マユミさんに渡すために買っていた蒜山耕藝のお餅を届けに寄ったのだ。蒜山耕藝のお餅は、これまた時々店主の貴美さんに会いに行く、西粟倉のフレル食堂で買い求めたもの。フレル食堂ではこの時期、蒜山耕藝のお餅を販売していて、毎年の楽しみなのだ。蒜山耕藝のお餅「蒜山○餅(玄米)」は、オリーブオイルで焼いて、粗塩をつけて食べるのが好きだ。つぶつぶの残る食感と、玄米の香ばしさがたまらない。今年は一袋を自分用に、もう一袋はマユミさんに渡そうと、二袋買っておいた。マユミさんはとっても喜んでくれて、お返しにと大きなレモンを紙袋に入れてくれた。世間話もそこそこに、そろそろ帰ろうかとしたところ、ちょうどお客さんが入ってきた。マユミさんが「お弁当ですか?」と聞く。お弁当のお店なのだから、そんな質問変なのだけれど、こう聞くのには訳がある。Bentoと同じ建物の二階(入り口は別)には、アジパイというカレー屋さんがある。昔は、今のBentoの場所にアジパイがあったのと、そもそもアジパイの入り口が小さくて目立たないので、アジパイに行くつもりが間違ってBentoに入ってくる方が多いのだ。案の定そのお客さん(マダム二人組)も「カレーは…?」と首を傾げている。マユミさんは笑顔を崩さずに「カレーは二階なんですよ」とお答えする。その横から私、「でも今日はカレー屋さんは定休日なんです」。そうしたら、マダム二人組、「ならお弁当にするわ。こちらに座っていいかしら?」と席に着く。私はその一部始終を見届けて、まゆみさんに目で「またね」と告げて店を出る。ただそれだけのこと。帰り道の車中、ただそれだけのことの余韻がじんわりと響く。目的のカレーがお休みならば、お弁当に、するりと変更するマダムの柔軟さ。「お弁当ですか?」「カレーです」「カレー屋さんは2階にです。入り口はそこで…」というやり取りを、これまで何度となく繰り返してきたであろう、マユミさん。私だったら、入り口に「こちらはカレー屋じゃありません。カレーはそちらの階段から→」とか、大きく張り紙でもしてしまいそうだ。でも、それはしないのがマユミさん。張り紙をするのは簡単で、そうすればいちいちのやり取りの手間は省ける。でも、そのやり取りを面倒と厭わないマユミさんだから、私みたいにマユミさんを好きな人は、マユミさんを好きなのだと思う。間違って入っても「間違ってごめんなさい」という気にさせない、「次はお弁当にしてみようかな」「今度お弁当買いにきますね」「だったら今日はお弁当にしようかな」そんな気持ちになるのは、張り紙でなくマユミさんとのやり取りだ。張り紙をするマユミさんだったら、マユミさんではないな。張り紙はしないマユミさんが作るおべんとうは、とってもおおらかで優しい味がする。そしていつも、お腹いっぱい満たされる。あの素敵なマダム二人組も、きっと満たされて帰ったのだろうな。そんなことを書き留めておこうと、商栄町の交差点の赤信号を見つめながら、思ったのだ。

仕舞わない洗濯物

洗濯物をたたむ。タオル2枚と、下着とパジャマ1セットずつだけよけて仕舞わずに、脱衣室に置いておく。今日は、お風呂に入る前に、着替えとタオルの準備をしなくて済む。ただそれだけの「効率的」なことに、得をした気分になる。こういうところに、私の変わらない、変えられない性質を確認して、やれやれ、と思う。何を決めるにも、頭の中で先回りをして損得を計算してしまうのは昔っからで、そういうところが粋でないし、自分をつまらなくしていることに気づいたのはいつだっただろう。誘いにのるか断るか、買うか買わないか、あの道にするかこの道にするか。日常の些細な選択も、効率的な方を、あとで損をしない方を、と考えてしまう。その度に、斜め上から見下すもう一人の自分が「やれやれ」と肩を落とす。10代の自分と比べれば、今ではだいぶ、損得ではなく「今、大切にしたい方」「私が、好きな方」を選べるようになったと思う。選ぶ、ということがそもそも、本当は必要無いことなのかもしれない。そう。随分、生きやすくなった。仕舞わずにいる洗濯物は、私の、それでもやっぱり変えられない部分なのだ。少しくらい、愛しく思ってあげてもいいのかもしれない。「やれやれ、しょうがない奴だなあ」と、愛しく思ってあげたい。それが、変えられない私、なんだから。

世の中知らないことばかり。隣人のことも。

昨日今日と防火管理者講習を受けた。大学のように、90分ほどのコマをそれぞれ担当の消防士が講師として担当する。出だしの数十秒で、この先の90分が“聞ける”90分かそうでないかわかるのも、大学を思い出した。声のトーンとギャグのセンス、これ大事。元野球少年(ピッチャー)、消防士となった今は元同級生と結婚し、二児の父。というのは完全に勝手な想像だけれど、そんな爽やかな雰囲気を纏った消防士さんが受け持ったコマ。「火災時に人々が陥るパニック」という項で、すぐに思い浮かんだ光景は、先日宮崎キネマ館で観た『ホテル・ムンバイ』の、テロリストの銃撃から逃げ惑うホテル客と従業員たちの姿だった。2008年に起こった、ムンバイ同時多発テロ。高層ビルに航空機が追突し黒煙をあげる映像が印象的だったのは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ。こちらはその映像が「9.11」として記憶に刻まれている。一方、ムンバイ同時多発テロは、正直全く記憶にない。11年前というと、私は15歳、中高一貫校で寮生活をしていた時だ。寮のご飯を食べながら、ニュースが流れていたあのテレビ画面に、タージマハル・ホテルの惨状も写っていたはずだ。そんな記憶にもない出来事の映画だったのだけれど、胃に響くような2時間だった。映画を観て、「恐怖」と「遣る瀬無さ」で涙を拭うのは初めてだったんじゃなかろうか。映画館を出て見上げた、すっこーんと広がる宮崎の青空さえ恐ろしく感じるくらいだった。何が怖かったんだろう。銃声。テロリストの少年たちの眼差し。膝から崩れる人間。血の海。静かにしないとバレるのに、ガタガタ震える体。“パニック”に陥る集団。その中で、主人公・アルジュンが、自らが頭に巻いているターバンのことを語るシーンは、忘れられない。疑いは晴らすのでなく、自らの手で解いてみせるものなんだと知った。本当に怖いのは、銃声でも、血の海でもない。異なる文化、信仰、歴史を持った人と人が、小さな疑いから殺し合ってしまうこと。知らない文化、知らない宗教、知らない国、知らない人、知らない隣人のこと。そして、私の考え、私の家族、私の歴史、私のこと。知りたいと思うこと、知ろうとすること、教えて欲しいと伝えること。テロも戦争も迫害もいじめも、日常の中から起こる。全て、人と人の間から起こる。もっと知りたい。知ることは、とても楽しい。講習の後に定有堂書店に行って、今日はこの本を選んだ。

よーく読むと、すごい!八頭町立図書館の企画。

月に一回、八頭町の3つの図書館が持ち回りで編集する「くつろぎタイム」。今月号を手にとって、「ぬいぐるみおとまり会」なる企画に驚き桃の木山椒の木。「2:30 ぬいぐるみと一緒におはなし会。」まではいいとして、「3:00 ぬいぐるみは家に帰らずにとしょかんにとまる」から先が、なんかすごい。静かにすごい。斬新。大好きなぬいぐるみを通して想像する、“よるのとしょかん”言っちゃあ、ぬいぐるみを図書館に預けるだけなんですが、「ぬいぐるみはとしょかんをたんけんしたり、しごとをする」というテキストに添えられた、ちゃんとみんなで一緒に寝てる証拠写真!親がお泊まり保育にいった我が子を想像する感覚と、たぶん一緒。心配で、でも想像すると「きっと楽しくやってるんだろうな〜」というワクワク感。大好きなぬいぐるみが、かりたい本を選ぶ。イッツメッセージトゥーミー!幼少期、お気に入りのぬいぐるみに「○○ちゃんはプリンが大好物なんだよ〜」とかいろんな設定をつくっていた思い出って、多くの人にあるのではないでしょうか。私は大いにありますね。(サンリオのシナモンでした。)そんな子供達にとって、自分のぬいぐるみが「この本を選んだんだ!」っていうのって、すっごくドリーミー!このぬいぐるみに、意思があるという証拠。嬉しい。絶対、嬉しい。きっと家に帰ってすぐにその本を読みたいし、何度もなんどもぬいぐるみに読み聞かせてあげたくなる。その本も、きっと特別に感じる。だってこの子が選んだのだから!子を思う親と一緒です。改めてまとめると、この企画のすごいのは、子どもの代わりにぬいぐるみを泊めることで、→企画の「一泊二日」を可能にし、費用も手間もリスクもないのに、なんか“壮大”。→子どもは自分が泊まるよりも想像力が膨らみ、むしろワクワク感が倍増  → 費用も手間もリスクもないので、費用対効果(効果=子どもと本の関係づくり)抜群。そして、「くつろぎタイム」を紙媒体を使った企画の伝え方として秀逸なのは、終始「ぬいぐるみは○○する」、主語をぬいぐるみに徹底することで、→子ども達がぬいぐるみを通して想像を膨らませ疑似体験する「よるのとしょかん」の具体性がぐんと高まる。→企画の魅力が、大人にも伝わる。うちの子ども、参加させてあげたくなる。個人的には「おむかえをまつ。」で説明が終わっているところがまた、たまらない切ない。「子どもたち、ぬいぐるみをお迎えに行こう!」でなく「ぬいぐるみ、おむかえをまつ」。ここまで主語をぬいぐるみに徹底。ほんと、アイデア次第。書き方次第。0歳から100歳までが集う場所を運営する人として、すごーく勉強になりました。八頭町立図書館さん、毎月ありがとうございます。追記今月の図書には、「超入門 ラグビーのみかた」が入ってました。ちゃんと旬を捉えて選書してくださってます…!そういうところがまた、嬉しいです。

特等席が一番とは限らない、ということがわかるほどには、大人になったのだろうか。

一つ前の、休日。たまに行く海辺のカレー屋さんに、一人で入った時のこと。昼も過ぎた時間だったが、お店は賑わっていて、空いていれば選ぶ海側の窓際の席は、赤ちゃん連れの夫婦と中高年の夫婦で、すでに埋まっていた。海とは反対側の奥の席に、海側を向いて座ることにする。せっかく海の方に来たのだ。海側の席がよかったなあ、と最初こそ思ったのだけれど、すぐにその考えは消えていった。カレーを待つ間、何とは無しに、海側の席に向かい合って座る中高年の夫婦を見ていて、それがすごく美しかったのだ。その夫婦も、私より少しだけ前に店に入ったところらしい。まだテーブルの上にはお水の入ったデカンタと、それぞれにグラスとおしぼりだけ。向かい合った夫婦は、店内にある雑誌をそれぞれ読みふけっている。私より先にカレーが来て、それがテーブルに置かれる間だけは顔をあげた、夫婦。しかし食べ始めると、白髪混じりの男性は再び片手に雑誌を眺めながらせっせとスプーンを口に運ぶ。一方、肩までのくせ毛の髪をしっかり耳にかけた猫背の女性は、海をぼんやり眺めながら、ゆっくりとカレーを食べている。逆光で、影のように見える夫婦。その奥には白くひかる海。デカンタの水も光を反射させて、店内に海面のような模様を作っている。ただそれだけの風景が、とても綺麗だった。少しして私のカレーも運ばれて来る。賑わう店内、隣の席ではおそらく高校生がデート中。彼のほうがタコライスを頼んでいて、タコライスも気になっていた私はカレーを食べながら盗み見る。「タコライスにお好みでかけてください」の辛いソースを、彼が彼女のカレーにかけていたずら顔をみせ、彼女は怒ってみせる。そんな二人を可愛く思うくらい、それなりに年を重ねてきた自分には、辛めのカレーがちょうどいい。なんならソース、貸してくれないかな。海側の窓際の席は、海を見るには特等席であることに間違いない。けれど、窓際に座る夫婦の長年積み重ねてきた夫婦の時間が作る静かな風景や、お隣の高校生の甘酸っぱい時間は、窓際に座っていたら見ることができなかった。特等席が必ずしも一番いい席、とは限らないのだ。そんなことを確認して、お客さんが減り店内が空いてきた頃、食後のアイスチャイを頼んで窓際の空いた席に移動させてもらった。遠くの海が少し近くなって、それはそれでやっぱり、美しいのだった。